2011年11月21日月曜日

My First Memories of TV

私の生まれてから最初のTVの記憶は、アニメ『アストロガンガー』。
兄がTVのUHFのチャンネルを回していて、砂嵐から最初に鮮明に映ったのが『アストロガンガー』だった。
おそらく4歳になる前のことだと思う。
どういう状況なのかまでは覚えていないんだけど、UHFのチャンネルの合わせ方を兄が私に教えた時のことなんじゃないだろうか。

この時の『アストロガンガー』は再放送だ。
でもそれ以降『アストロガンガー』を観た記憶はない。
おそらく再放送はそれ以降なかったんじゃないだろうか。
「懐かしのTVアニメ」の特番とかでも取り上げられているのを観た記憶もない。

でも、この『アストロガンガー』、韓国では結構人気があったようだ。
Wikipediaによると、
日本文化開放前の韓国でも『짱가』(チャンガ)の題名で放送された。当時ヒットしたようで、韓国ドラマ『メリー&テグ恋のから騒ぎ』『星を射る』『シングルパパは熱愛中』などの劇中で現地語バージョンの主題歌が歌われるほか、少女時代が新韓銀行クレジットカードのCMにおいて替え歌でカバーしている。

ストーリーもまったく覚えていないけど、自分の最初のTVの記憶の番組が人気があったというのは、なんか嬉しい。

2011年10月31日月曜日

The next day of Dennis Ritchie Day : Memo

2011(第27回)日本国際賞贈賞
5月に日本国際賞の受賞セレモニーが Bell Labsで開かれたそうで、 Bell LabsのmemberにOBと総勢360名も出席した盛大なものになったみたいですね。
Brian Kernighan, Alfred Aho, Douglas McIlroyも出席していて、死ぬ前にこういう機会をもてたことはとても幸せだったんじゃないでしょうか。

Berkeley Heights man receives Japan Prize for co-inventing UNIX computer operating system - NJ

このceremonyの時におこなわれたinterview => http://spectrum.ieee.org/at-work/innovation/inventing-unix

Dennis Ritchie, 70, Dies, Programming Trailblazer - NYTimes.com

The next day of Dennis Ritchie Day : The Evolution of the Unix Time-sharing System

UNIX原典―AT&Tベル研のUNIX開発者自身によるUNIX公式解説書
元になっているのは、Bell System Technical Journalの1984年8月号の第2部のUNIX特集号。
1979年以後の32bit型computer向けのUNIXに関連する論文を集めたもの。
この中に2本(多分…)dmrの論文が掲載されている。
その内の1本が「The Evolution of the UNIX Time-sharing System」という1980年に一度発表したものの再録。
1973年にCで書き直される前のまさに「始まりのUNIX」のことが、短い文章ながら意外と詳しく書かれていて、とてもおもしろかった。
English版のWikipediaのUNIXのページにもこの論文から引用されている箇所がある。
Douglas McIlroy氏もこの論文を
Nobody has told that
story better than Dennis himself did in the Bell System Technical Journal in
1984, but perhaps I can add some footnotes.
として補足を加えている。=> Remarks for Japan Prize award ceremony for Dennis Ritchie, May 19, 2011, Murray Hill, NJ

ということで、この論文に書かれていたことからいくつか書き出す。

UNIXに初期の頃から関わってきたgroup => K.Thompson, Ritchie, M.D.McIlroy, J.F.Ossanna
 我々は実際にMulticsに携わってきたベル研の最後のgroupに属しており
その成功に一縷の望みを託していた
我々としては、他に利用できる同様のsystemがなかったので、せっかく満足している環境をあえて失いたくなかった。
我々が守ろうとしたのは単にプログラミングしやすい環境ではなく、まわりと親交をもつことのできるシステムであった。
1969年から我々はMulticsの代わりを見つけようという試みを開始した。
Brian Kernighanが、多少Multicsをけなした語呂合わせでUNIXという名前を言い出したのは1970年に入ってからのこと
「文書編集および文書整形専用のシステムを作成する」という名目で、PDP-11の購入申請をすることにしたのは J.F.Ossanna
1971年、「購入時の約束を果たすため、特許部に対し特許申請書作成用に文書処理サービスを提供することを考え」、1971年後半には実際に特許部に採用された。
UNIXにパイプが実現されたのは、M.D.McIlroyが強く主張していたから。

そして、次の文でこの論文は終わっている。
なお、読者の皆さんには、本論文中に出てくる「我々」をただ漠然と「Thompsonとそれを多少援助した私」という具合に解釈しないでいただきたい。
この論文を読む限りでは、「Space TravelをplayしたかったからUNIXを作った」という話は、あまりにも多くのことをはしょりすぎだと思った。
元々、Multicsに代わるOSが作りたくて設計をしていたときに、手軽にSpace TravelをplayするためにPDP-7を手に入れた結果、自分たちが自由に使えるcomputerが手に入ったので、そこにすでに設計していたfilesystemを含め、それまで仲間内で議論していたideaを盛り込んでいった結果、UNIXができた、ということのようだ。

ところで、ここでとりあげたのは薀蓄として語るような話だけで、実際には技術的におもしろい話も書かれているので、一度読んでみた方がいいと思う。

探してみたら、原論文がWeb上にあったのだけど、公開していいものかどうかがわからなかったので、リンクはしない。

2011年10月30日日曜日

Dennis Ritchie Day: あなた達が作ったモノが私の人生を変えたのです。

最近よく思う。
あるproduct, theoryなどといったモノは、その発明者や開発者がいなかったとしても、遅かれ早かれ誰かが同じようなモノを作り出すものだということを。
でも、そのモノの「ありよう」というものは、発明者や開発者の個性によって大きく変わるものだと思う。
だから、dmrをはじめとするEarly Developersの個性によって、UNIXの「ありよう」は決まったのだ。
環境や偶然など様々な要素の影響はあるにせよ。

「ありよう」が異なれば、そのfutureは異なるものとなる。
彼らでなければ、UNIXが誕生したあとの、BSD, Linuxの誕生はなかったかもしれないし、ましてやiPhoneをはじめとするmobile機器にUNIXの子孫が使われるようなことはなかったかもしれない。
さらに言えば、Internetの「ありよう」も今とはまったく違ったものになっていたかもしれない。

そして、その「ありよう」が生み出したモノ達が、私の人生を変えたのだ。

25歳で初めてパソコンを使い始めた超文系人間が、初めてのパソコンとしてMacを買った結果、MkLinuxの存在を知り、やがてFreeBSDを使い始めることになる。
そしてFreeBSDを使っていたおかげで、29歳になる直前にSupport EngineerとしてComputer業界の一員になることができた。アルバイトだったけど。
そしてFreeBSDを使っていたおかげで、業界経験2ヶ月ほどでhigh levelな会社で、お手伝いレベルとはいえ、常駐して働く機会を得た。
そして、high levelな会社で働いていたおかげで、次の会社では正社員として採用された。
そして、なんとその会社で働き始めて3ヶ月後には、その会社のWebサービスのインフラ周りの運用を一人でやることになったのだ。

25歳になるまで図書館にある蔵書検索用のパソコンすら怖くて使えなかった文系人間が、30歳にしてServer Engineerになれたのだ。
それもこれも、FreeBSDというfreeなOSがあったおかげだ。
Internetという独学するのに最高のenvironmentがあったおかげだ。

あなたたちが作ったモノから派生したものが、私の人生を変えたのです。
もちろん、良い方に。

(すべてをdmr達によるUNIXの開発に帰するのは一見強引なように見えるけど、どうしても僕にはdmr達がUNIXを作ったことからすべてが始まったように思えてしようがないのだ。)

2011年10月17日月曜日

ヒルベルト : 現代数学の巨峰



KleinがGöttingenで果たした役割の大きさ。
quantum theoryは、BornとHeisenbergがGöttingenにいたからこそ生まれた。
relativityとquantum theoryがドイツ語圏で誕生したのは、まさにKleinがいたから。

Hilbertが20代の時は、まだFranceがmathematicsの最先端国だった。
KleinとLieは青年時代にParisをvisitし、group theoryに関するknowledgeを持ち帰った。
Kleinの勧めで、HilbertもParisに滞在した。

Einsteinのgeniusを強調しすぎると、当時のmathematicsの急速な発展の成果が見えなくなってしまう。
Minkowskiは、ほぼ同時期にspecial relativityに近づき、
Hilbertは、ほぼ同時期にgeneral relativityに近づいた。
Hilbertのbiographyを読んだからだろうが、EinsteinよりもHilbertの方が存在としてはすごいように今は感じている。
少なくとも、Einsteinがいなくてもすこし遅れただけでrelativityは誕生していたと思うのだけど、どうだろうか?

2011年10月11日火曜日

個性があればあるで 押さえつけるくせに

OldマスコミのJobs報道を見聞きしてると、この歌が頭に鳴り響く。
どこかのエライ人 テレビでしゃべってる
今の若い人には 個性がなさすぎる
僕等はそれを見て 一同大笑い
個性があればあるで 押さえつけるくせに
THE BLUE HEARTS ロクデナシII 作詞:真島昌利

2011年9月12日月曜日

Dan Gardner『RISK: THE SCIENCE AND POLITICS OF FEAR』


今の日本で読まれるべきbookだと思う。
恐怖や思い込み、報道などにより、riskを正確に見極めることができなくなっている事例を紹介しているbookです。
やはりこのbookの肝はテロに関する章。
欧米でテロで死ぬ確率がいかに低いかを順を追って説明している。
テロよりも他に気をつけなきゃならないことは、世の中にはたくさんある。

これを呼んでから、マッテオ・モッテルリーニ『世界は感情で動く - 行動経済学からみる脳のトラップ』やJoel Bestの統計本をreadして理論武装すれば、少しは冷静な判断ができるようになるかもしれない。

2011年8月8日月曜日

"FEYNMAN'S RAINBOW" Leonard Mlodinow


原著のtitleのままのほうが良かった。
デカルトがその気になったのは、虹を美しいと思ったからだよ。
本書は、Feynmanの最後の講義録でもないし、著者は、Feynmanの最後の弟子でもない。
this book は一言で言えば、著者Mlodinowの1981年から1982年にかけての青春記だ。
Caltechの特別研究員になったものの、研究テーマに悩み、そして自分の進路にも思い悩んだMlodinowは、最終的に研究者ではなく脚本家を目指すことになる。
もちろん、Feynmanのことを書くために本書は書かれたのだから、Feynmanも主役の一人だ。
人生の終わりを迎えようとしているこの科学者との会話から、私は、科学とは何か?、科学者とは何か?という疑問への答えを見つけ出した。そして何より、人生への新しいアプローチのしかたを見出したのである。
そしてもう一人の主役がいる。
superstring theoryの研究者John Schwarzだ。
彼との交流は1シーンしか描かれていないが、Mlodinowは最初、superstring theoryを研究テーマにすることを真剣に考えていたようだし、そして何よりもMlodinowが脚本家の道を選択することに彼の存在が大きく影響しているからだ。
誰かのideaが簡単に退けられてしまったり、誰かの人生の目標が無理だと批判されたりするのを聞くと、私は決まって、John Schwarzを思い浮かべる。
私のように人生の目標を見失っているような人間には、Worth Reading !!!

2011年7月11日月曜日

こんな人間には決してならない

  • デマを流す人
  • 人を不安にさせる人
  • 自分が理解していないことを人に強制する人
  • 今だけを見て物事を判断する人

2011年6月27日月曜日

graph manになる

色んなことが頭の中でgraphに変換できるようなgraph manになる。

graph theory と確率論をマスターする

これから3ヶ月の最優先事項は、graph theoryと確率論をマスターすること。